語劇の話。

本日、11/22日14時からの公演を以て、フィリピン語劇、は終わった。

様々な方からお褒めの言葉をいただいた。

自分だけの功績ではないとは分かっているものの、頂くお言葉が全て私に向けられているのではないかと思ってしまうほど、達成感と安堵感で包まれている。

 

正直に言って、あれほどの完成度のものが作れるとは思っていなかった。

自分に代表などという大役が務まる気は勿論しなかったし、本当のはなしフィリ科のみんなが協力してくれるとははなから思っていなかった。

こんなことを書くと怒られるのかもしれないが、ここでは私が本当に感じたことを書かせてもらいたい。

協力が得られると一ミリも思っていなかった私は、代表になった時点でものすごいハイクオリティな劇を作ろう、などと考えるのをやめた。

 

どうしたらフィリ科のみんなの力を極力借りずして語劇を完成させるか、それのみを考えていた。そのために必要な工程は考え付く範囲ですべてやったと思うし、自分が周りが見えていなかったり、感情的になってしまうこともあったけれど非常にコンパクトに様々なことを進められたと思う。

 

そういう意味で、僕は「語劇に対する情熱」というものを放棄したわけではないと思っている。確かに、外実の方々などより良いものにしようと常に動いてくださっている人がいるのも承知している。だが、可能な限り、他人に迷惑のかからない形を目指した私の判断は、間違っていなかったと思う。

 

だが、一つ誤算があった。

フィリ科の人たちを甘く見すぎていた。

彼、彼女らは、必ずしも全員非協力的、というわけではなかったのだ。

正直な話、上に述べた理由から私は人に仕事を頼む、ということをほとんどしてこなかったし、頼んでやってもらえるとも思っていなかった。

しかし、本番が近づくにつれて、協力してくれる人も増えてきた。

語劇のことを少しでも考えてくれている、と感じた。

嬉しかった。

 

でも、そんなことを喜んでいる余裕は私にはなかった。

はっきり言ってルールぎりぎりのことをたくさんしていたし、何ならリハーサルだって4人でやった。

それなりにしんどかった。

何より、自分が何をできるのか、何をすべきなのかわからなかった。

 

小道具、大道具も心配ばかりではあったが、本番にはきちんとすべてそろっていた。

自分も全体像が把握できておらず、知らないところでどんな話が動いているのか、想像もつかなかった。

 

本番に近づくにつれて、周りはどんどん見えなくなり、もはや自分の目の前のことをこなすので必死になっていた。

本当に、山ほど迷惑をかけたと思っている、

 

何なら本番だって、音響機材のトラブルなどでいろいろな仕様がその場で変更された。

本当は一番どっしり構えていなければいけないはずの俺は、すっかり状況の把握に追われ、闇雲に走り回っていた。

こういうのは、下をよくやっていたからわかるもので、上の人間が落ち着かないと下は不安で仕方ないのだ、、、

こんなことに気づいたのは深夜にブログを書いている今頃のはなしで、当の自分にそんなことを考える余裕はなかった。

 

とにかく。

問題の多いリーダーだった。

皆をまとめるカリスマ性もない、劇の経験もない、何ならフィリ科からの信頼も無かった。

しかし、

そんな僕でもこのような素晴らしい劇が作れたのは、本当にフィリ科のみんなの協力があってのことだというほかない。

 

本当のはなしあそこに僕のことを好きだと思う人は一人とていないと思うが、僕は今日、フィリ科に入ってよかったと思ったし、このような人たちに出会えて幸せだと思った。

 

なんだか話に一貫性が無いようにも見えるが、、、

 

今回の語劇代表という立場を経験して、自分は沢山のことを学ぶことが出来たと思っている。

人をきちんと見てチーム一人一人を把握すること。

上に立つものが常に全体を見なければならないこと。

どんな時でも感謝と思いやりをもって仕事に取り組むこと。

 

どれも当たり前のことの様ではあるが、自分でこういったことの大切さに気付けたのは、本当に良い経験になったと思う。

 

長々と書いてしまったが、これで私の語劇への思いは大体伝わったと思うし、なんとなく満足できた。

後は、これまでに語劇を終えた語科の代表さんたちに心からの労いと、これから語劇を行う語科の代表の方々へ精一杯のエールを送りたいと思う。

 

東京外国語大学は、世界で最高の大学であり、自分がここに籍を置けていることを誇りに思う。